真三國志関羽編−24−



2008年07月31日(Thu)
真三國志関羽編−24−
 玄徳邸の裏で綺麗に桃の花が咲いているという話を聞き、彼と関羽と張飛は手下を従え、そこで義勇軍の決起を期した飲み会を行う事にした。
 あれから関羽は厳しい訓練を施した。その結果彼の訓練は的確で最大の弱点であった組織戦のもろさがこれで改善されてはいた。ただそれだけ厳しい訓練を施されればかなり手下達も疲労が蓄積しているし、心労もあるし、あるいは反発もあるかもしれない。
 自分の趣味も含めて張飛が彼らを慰労しようと提案し、宴会を開くようにした。
 
 その中で、関羽と張飛はならず者の用心棒集団である玄徳の手下として、舎弟としての杯を交わすことにした。
 関羽は玄徳と知り合って日が長いわけでもなければ、玄徳が頭領として何か実績を上げたわけではないので、完全に信服したわけではなかった。
 (ただ、この男をつかって俺様の力で出世をするのなら)
 腹を決めるべきなのである。
 一つの軍で3人が自己主張するようであれば軍が3つに割れてしまう。折角決まった内容を関羽が簡単に否定してしまうようであれば、玄徳の部下からも上司に対して疎略に扱う者が出てくる。
 組織として示しがつかない状況であるのは軍隊では良くない。玄徳の軍にはいるのなら、関羽が自信が率先して玄徳を立てるべきだ。と関羽は思うし、そう言う形で秩序を出来た方が、関羽が指揮を執る場合でも都合がよいはずなのである。

 それでも玄徳は、形的には舎弟と言うべきであるが、気を遣って配下という形ではなく、対等の兄弟という形で、3人で盟約を組むことを望んだ。
 後に言う「桃園の誓い」までに挙兵のこと、組織のことも含めて3人は何度も協議したが、玄徳は関羽の武勇と軍略。張飛の腕力を評価して二人を部下として扱うのではなく天に並ぶ者が居ない特別な者として敬意を込めて配慮したのである。
 (そこまで評価してくれるのなら)
 「例え生まれた日は違っても、死ぬときは一緒だ。」
 張飛はそう言って、玄徳のその配慮に心から感激した様子で、心服を見せた。
 関羽も一方ではそう言った方が軍としての規律が取れるという思いもあったが、それ以上に玄徳のそう言う配慮や人間性や考え方に漠然でも自然と「この男となら一緒に死んでもいいのかもしれない」と思えられるようになっていたのである。

 ただ、挙兵にはそれでもいくつかの問題を含んでいた。


 


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